平和登校日 平和を築く行動へ 後期課程 その1 教職員の歌・沖縄修学旅行報告・映像から学ぶ

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□後期課程789年生は午前9時40分登校。10時から平和学習を開始しました。
全体会は、多目的教室でおこないました。

1、教員による歌 「島人ぬ宝」 夏休みに何度も練習して、生徒の前で歌いました。
※この日のために、教職員がバンドを結成されました。
※三線…村山T、山本T ベース…河野T ギター…石田T、太鼓…中田T
※この歌は、沖縄の中学生から「島への思い」を聞き取り、作詞されました。

2、9年生による修学旅行事後報告 
上所さん、小南さん、坂本初さん、美谷さん、藤井さんが代表で報告しました。
●沖縄戦
・沖縄が日本で唯一の地上戦の場所。・沖縄県民の4人に1人がなくなった。
・その数12万人。・沖縄本島では、約15%がアメリカ軍の基地。・ひめゆり学徒隊の紹介。
・ひめゆり学徒隊とは、普通に学校生活を送っていた13歳から19歳の女子生徒と教師、計240人が看護要員として戦争に巻き込まれ、うち136名が沖縄戦によって亡くなった。

●ひめゆり学徒隊
・ひめゆり祈念資料館にみなさんに折っていただいた鶴を捧げた。。
・「ひめゆり学徒隊」の主な仕事は、負傷した兵士の看護と兵士たちのおにぎりを作ること。だんだんお米が足りなくなっていき、戦争が長引くにつれておにぎりのサイズが小さくなり、負傷した兵士たちに「これだけでは生きられない」と怒鳴られたりしたそうです。
・少女たちは夢や希望を失いながら、必死に兵士たちの看護を続けていました。
・友だちが目の前で亡くなるという悲しくてどうにもならないというもどかしさを抱えな   がら過ごしていたんだと思うと胸が苦しい思いになりました。

●ガマ(糸数壕)
・沖縄県には石灰岩で形成された鍾乳洞が何千とある。
・その鍾乳洞、自然に作られた洞窟のことをガマといい、ガマは戦時中、防空壕や野戦病院として使用されました。
・私たちは修学旅行で糸数壕というガマに行きました。
・現地で体験して感じたことは、ガマは思っていたより暗く、そして足場が悪く、ここが病院や、避難所になっているとは思えませんでした。それだけ極限の状態に陥っていて戦争には隠れる場所もあまりないと思いました。
・当時、こんなに狭くて暗くて雨が降るとぬかるむ場所で、ひめゆり学徒隊の少女たちが寝る間も惜しんで傷ついた兵士たちの看病をしていたと思うと、心が苦しくなりました。
・破傷風の人や重症患者の人が連れてこられ、水も与えられずに、空気孔という光が入る穴もない真っ暗な場所に行ったとき、私はそのガマの中で当時のことを想像しました。
・ガマの奥の方は本当に恐ろしさを感じました。
・私たちはヘルメットをかぶり、ガマの中に入りました。上からは水のしずくがぽたんぽたんと落ちてきて、地面は水たまりだらけ。すべりやすく、真っ暗で懐中電灯がないと何も見えない場所でした。
・私たちは、実際に現地に行くことで、多くのことを学びました。
・絶対に、私たちが戦争を起こしてはいけない。そう強く感じました。

3、映像視聴 ~50年前の沖縄にタイムトラベル本土復帰「歴史への旅」~
・50年前の沖縄にタイムスリップする設定。とても分かりやすく番組が構成されていて、生徒が沖縄のことを深く理解しやすい内容でした。
・人権担当の石田先生が作成した資料から、1945年終戦から1972年返還までの27年間で5回も通貨が変わり、パスポートが必要だったことも知ることができました。
・沖縄は1972年に日本に復帰したが、復帰に賛成した人もあれば、反対した人もあった。本土復帰後もアメリカの基地は沖縄に残されたまま。
・今も基地問題は解決には至っていない。日本全体で考える問題なのに・・・。

4、各教室で振り返り、ワークシートに感想を記入。人権標語の作成もおこないました。

更新日:2024年08月15日 09:22:22